「可部じゃ可部坂、市木じゃ三坂、越木赤谷なけりゃよい」と馬子唄にも歌われた石州街道の難所、越木は、「その昔、大沼地で岩畳まで深い淵だったという言い伝えがあり、付近の山腹を開墾する際、砂礫がたくさん出るのもその事実・・」と市木村史にあり、市木川と来尾川の出合う沖積地を人々が開墾し、住み始めるまでには相当の年月があったようです。
明治中期、県道開設により越木は来尾(きたお)や戸川(とがわ)を控えた地の利もあって、人家が急増、商業が盛んになり、月1回の牛馬市も開設され、花街として発展、大正初期には戸数60余り、人口250人を有し、村内では町集落に次ぐ連担地となりました。
昭和33年10月の分村合併から7年を経て、越木には41年度から3階建ての旭町立東中学校が開校、市木のみならず来尾や都川から通学する生徒で賑わいましたが、年々の生徒数の減少により昭和55年度、旭中学校に統合、変わって校舎は旭町立市木小学校となり、市木小学校が旭と瑞穂の2校あった時代がありました。
その後過疎化の波は治まらず平成17年10月、浜田市との合併を経て平成26年度、今市小学校(平成28年度に旭小学校となる)に統合され現在は体育館のみが残っています。
越木の地名の由来は、宮中にあった伝説「一木の大木」の枝が過ぎた場所が越木だったと村史にあります。越木には芋代官こと井戸平左衛門や相撲頭「飛梅」の石碑、北西には、押入(おしいり)という鈩(たたら)があった谷など、そこかしこに長い歴史を感じさせる場所があり、体育館だけが残る母校跡地は町村合併に翻弄された市木村の運命を物語っているようです。
参考文献::市木村史、邑智郡誌、瑞穂町誌第1集
越木(こしき)から来尾(きたお)川に沿って、芸北の才乙(さよおと)方面に向かっていくと左側に民家が数軒見えてきます。中ノ原の集落です。その先大きくカーブを曲がると平松です。戸数減により中ノ原、平松、大石谷で平松集落になりました。
平松の「ヒラ」の意味をネットで調べると、傾斜地、山腹、あるいは建物の大棟(おおむね)に平行な側面とあります。アイヌ語で「ビラ」は崖、沖縄では坂を下から言う場合「ヒラ」だそうで急斜面のことのようです。市木でも「あんなヒラにいっぱい松茸がある」などと言います。「きっとこの左側の山腹に松が生えていたんだろうな」と想像しながら進んで行きます。
来尾川を隔てた対岸に見えるのは十通(ととお)りという集落で、旧都川村ですが、邑智郡誌によると、大町原にも三通り、九通りといった小字があり、昔戦いで矢が刺さった場所で、数字はその本数を表しているそうです。そこから、しばらく行くと、左の谷から急な坂道と川が出会ってきます。ここが大石谷(おおいしだに)(古くは生石谷(おいしたに))で、市木村第12代村長 高崎關太(たかさきせきた)の暮らした谷で、關太は、鳥越の山頂に居を構え20数年に渡り、山を開墾、杉、檜を造林し、市木の林業振興に貢献した人です。その功績を称え突鼻に頌徳碑が建てられています。「高崎資金」という基金があったことでも知られています。
大石谷の細い坂道を上ると、早水からの谷と出会い唐杉山こと三石山、天狗石山へと続きます。このあたりは村内でも猪子山と並んで鈩が多く、大石谷、たたみ、井出が谷、深山などの鈩がありました。
たしか山深いことからヒバゴンを彷彿させる半獣人の伝説があったと記憶しています。中ノ原、平松、大石谷は山で働く人たちのまさに仕事場だったに違いありません。
参考文献:邑智郡誌、市木村史、瑞穂町誌第3集、hint-pot.jp/archives/143369
「早い水」と書いて「はやみ」と読みます。早水は丸瀬山、三石山、天狗石山と背後に大きな山が連なり、早水川は急流渓谷をなし、市木川(八戸川)へと合流、「魚断橋(うおきりばし)」の名が示すとおり早水は早水(はやみず)の里です。
早水渓谷は邑智郡誌によると、「游仙峡(ゆうせんきょう)」という名所として、曲水(きょくずい)、領分(りょうぶん)などの滝と淵の渓谷美を田中頼璋の弟子で早水出身の画家、島津頼潮が描いた絵とともに紹介されています。
そして、桜尾城(堀城)が毛利軍勢により落城する際に、乳母が若君を抱いて逃げまどい、ついには早水川に身を投げたという言い伝え「どうしょう淵の由来」(市木新聞掲載)によると、生死を占った「杖投げの淵」や、「丹後ヶ淵」、「乳母ヶ淵」などの伝説の淵があるそうです。
町集落の惣田沼から顔を出し淨泉寺のお経を聞くという大蛇の伝説がありますが、その尻尾は早水の「瀧本淵」にあったという言い伝えもあり、「宮子淵」のえんこう(河童)など早水には淵の伝説が数多くあります。
市木新聞の商店の広告によると、戦後から昭和30年代にかけて、県道5号と町道の交差点界隈は酒井医院や電器店、衣料品店、建具店など商店が並び、町を形成していたことがわかります。平成8年3月には林道早水来尾線が開通し、アサヒテングストンスキー場、あさひグリーンビレッジなどリゾート地として多くの人で賑わい、スキーのみならず雪合戦などのイベントも開催され良き時代だったと振り返ります。
三石山の由来は、頂上には浜田、津和野、芸州の3つの藩境を示す三つの石があることからで、天狗石山頂上付近には木無原(きないばら)という開拓村がありかつては学校もあったと聞きました。鈩(たたら)も薊小屋(あざみごや)、早水(本谷)など2か所あり、林道を上る途中、道正、東中西などの地名の釈(えき)と書いた案内板が目をひきます。きっとそれぞれに由来があるのだろうと想像し、もっと早水のことが知りたくなりました。
参考文献::邑智郡誌、市木村史、瑞穂町誌第3集、市木新聞、消えない筆跡第2号ほか
内ヶ原の由来は、旭市木の老人クラブ「消えない筆跡10号」(平成7年3月発行)に当時88歳の田城モモヨさんが次のように書いておられます。「内ヶ原は耕地を避けるように山際に沿って輪のように家が建てられたので内ヶ原と名付けられたそうです。」内ヶ原に限らず山寒村では少しでも米を作ろうと日当たりのいい場所は耕地に、住まいは山寄に建てたのです。実際にこの目で確かめようと内ヶ原の県道から町道に入り登っていくと先ず正面に第58番小学校跡の石柱に出会います。この小学校は「市木小学校百年史」によると、明治10年、市木村初の校舎建築(6間×3間草葺)として、東校(観音寺原午王橋たもと)と西校(内ヶ原隅田屋下)に建てられ明治22年まで開校していたとあります。
そこから右に大きくカーブして登っていくと集会所があり今度は左に大きくカーブしていくと耕地整備の記念碑があります。このあたりを中心に円を描くとまさに、内側に開拓した田、外側に住まいの集落でした。
家々の空を浜田自動車道が通っていますが、この辺りは昔、内ヶ原城、隠山刀が迫など戦の見張り場所や刀を研いだ場所であったそうです。
田城さんはさらに「内ヶ原は大久保、長迫からの水で全戸の田圃が賄われて水も温かく良い米が出来ます。思いますのに内ヶ原で10か所、貝崎で10か所の飛び石があったと記憶しています」川を渡るために設けた「飛び石」だったものか集会所近くに大きな石が置いてありました。
また、矢倉坂にあったと伝えられる熊野神社は熊野権現宮として石見地方地誌「角経石見八重葎(ぬわういわみやえむぐら)」に載っています。熊野からこの地に移住した民族の言い伝えがあり、どうやって市木に来たかはわかりませんが、紀伊国(和歌山県、三重県南部)と島根県には熊野、松江、忌部(井辺)など共通の地名が多くあり、市木もその一つで三重県南牟婁郡御浜町市木を学生の頃訪ねたことを思い出しました。
参考文献:市木小学校百年史、消えない筆跡第10号、角部経石見八重葎
「貝崎は昔大きな岩の間から貝が出、貝の出た険しい山というところから貝崎と名付けられたそうです」貝崎の由来について、旭市木老人クラブ寿会発行の「消えない筆跡10号」(平成7年3月発行)に『飛び石に思う』と題してこのように寄稿がありました。
さらに、「川に沿って小さな田が段々につづき、いずれの田へも川を渡らなければなりません。そのため川の中に何カ所も飛び石が設けてありました。人はマグワ、スキ等の農具を担いで飛び石を渡り、牛は尻を叩かれながら、川の中をざぶざぶと渡って行き帰りしたものです。」中略「貝崎の水は立河呂(たてごうろ)、芋河呂(いもごうろ)というところから流れ美味しい水ですが、田が小さく(水が)直接あたり上等な米はできませんでした。」と文章から厳しい自然と対峙する当時の人々の暮しぶりが伺えます。
現在貝崎(かいさき)は、中倉(なかぐら)、一ノ瀬(いちのせ)との3集落で貝崎となっており、中倉は貝崎の西隣で、「消えない筆跡2号」(昭和61年3月発行)によると、「中倉の西は、宮の谷から平松峠に、東は才の峠から貝崎上組へと平松と貝崎の中間に位置し、貝崎川からの水を横手水路により引き新田開発し最盛期には24戸あり、岩浄寺というお寺があったことから、仏田、岩浄堀田、御鉢田といった地名がある。また、中倉の火の谷川を下り県道に出ると川下は越木、川上は一ノ瀬の集落で、一ノ瀬には、切石の地蔵、下土井の桜、ひょうたん屋の墓、龍岩地主神などの見どころがある」と書かれています。
また、「消えない筆跡創刊号」(昭和60年3月発行)の寄稿によると、貝崎には、弘法大師の足跡岩「三つ子(みつご)」があり、大師が3歳の時、右足をこの岩でふんばり、杖で左足を大きくのばし丸瀬山に入ったという伝説があります。他にもヒールの神様、弘法岩、才の峠辻地蔵、高崎林道、泣き石、幸の神、良心坊、寺床など、伝説の地名、旧跡が多く、現在貝崎6戸、一ノ瀬4戸、中倉6戸になっていても、訪れた3月初旬そこには農地を守る人々の姿がありました。
参考文献::消えない筆跡創刊号、2号、10号
中郡は文字通り市木村の中心に位置します。字塚の元に明治時代は村役場、東西にあった二つの58番小学校の統合小学校がありました。消えない筆跡第9号(平成5年11月発行)の「市木八景」のページ(出所不詳)によると、八景の一つ「眼下の田面」は市木神社から見おろした中郡の田園風景のことで、その紹介文には「中郷」となっています。市木の郷(さと)の中心ということでしょうか?実際に神社からの眺め(写真左)は素晴らしく正面に丸瀬山の頂き、眼下の田面は今やビニールハウス群となっています。
一木の大木伝説(消えない筆跡創刊号昭和60年3月発行)で大木の元という字名は森迫のむこうにあるということがわかりました。昭和33年の分村合併の際、境界線が小学校の敷地で引かれたため、宮の地の刈屋原は、旭町では中郡となり、瑞穂町分は宮の地と中郡の一字をとって宮中になりました。それでも中郡東部と宮中の講合(講中)のつきあいは旭・瑞穂に関係なく分村後65年経った今でも続いており、分村当時の人が知るときっと驚くことでしょう。まさに市木の誇りだと思います。
中郡には浄土真宗本願寺派光西寺(写真左下)があります。市木では町の浄泉寺と光西寺において年2回「相続講」を交互に行い幾代にわたってお念仏を相続してきた伝統があります。また、森迫バス停右を100mくらい入った小高い丘に薬師如来堂があり善福寺薬師如来の伝説(消えない筆跡創刊号)があります。このように、神仏を敬い尊ぶ精神は今を生きる私たちが大切に受け継いでいかなければと思うところです。
消えない筆跡第4号(昭和63年3月発行)によると光西寺の近くの旧街道沿い、早水から岡坂を上ると但馬屋、井原屋、坂本屋という三軒の茶屋があり、四季折々街道を行き交う人の憩いの場所だったと寄稿があります。
また、森迫の停留所には芋代官こと井戸平左衛門の碑(写真左中)があります。これは中郡講中が明治31年11月に建立したもので、市木には越木、麦尾とこの3か所にあります。中郡の小字を調べると、善福寺田、田中田、瓢箪田、代ノ田、神田、沖田、畠田、石原田、藪田、喜左衛門田、大ノ田など田のつく地名が多く、市木の中で最も広く平坦な田園地帯ならではの所以と考えます。
参考文献::市木小学校百年史、消えない筆跡創刊号第4号第9号、小字名切図一覧表
古い参考文献が見当たらないので、現況の来尾集落を紹介します。
越木集落の浜田八重可部線から、旭戸河内線を来尾川に沿って山あいを進んで行くと来尾集落となります。中心は来尾集会所周辺で全長5Kmと縦長の集落です。数年前までは、上来尾、中来尾、十通りの三集落ありましたが、少子高齢化が進み、一つの集落にまとまり現在は20戸足らずの集落です。
山間地特有の棚田で現在も稲作が行われ、美味しいお米が毎年取れています。又、地域活動も盛んで、田植え囃子、お盆の盆踊りや秋の豊作を祝うお祭りなどなど、古き良き地域活動が伝承されています